僕 と 父 と 声
とんでもないプロデューサーだった両親
1960年2月9日早朝。僕は楠瀬家の長男として父一途、母雅子の間に生まれた。
4才下の弟と更に4才下の妹の3兄弟である。
父と母は僕が生まれる前に2人でひとつの事を決めていた。[expander_maker id=”2″ more=”続きを読む” less=”閉じる”]
子どもは3人つくる。
1番目は音楽家として後を継がせる。
2番目はスポーツ選手に育てる。
3番目は普通の生活をさせる。
というとんでもない決定だった。
生まれる前からこんな事を決める夫婦がどこにいるんだ。
そして、僕は音楽を継いだ。
弟は帝京高校、法政大学、そして読売ヴェルディでJリーガーとして生きた。
妹は普通に育てられ普通に結婚し普通に母になった
驚きなのは僕も弟も妹もその道に抵抗なく好きで飛び込んでいた。
使命感を背負う事なく。
とんでもないプロデューサーだ。
よく考えると僕たち兄弟は同じ屋根の下で暮らしてはいたものの
全く違う育て方をされていた。
次回はそのとんでもない育て方を書いてみようと思う。
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父の響育(きょういく)その1
教育とは教えて育てるという意味がある。しかし、楠瀬家には独特の育て方があった。
それは「教育」ではなく、「響育(きょういく)」というものだった。[expander_maker id=”2″ more=”続きを読む” less=”閉じる”]
朝起きて食卓に座っている両親に「おはようございます!」と
言えば、「その響きは、『おはよう』ではないだろう」と叱られる。
学校へ行くのに「いってきま〜す!」と言えば、「待ちなさい!
それは、『いってきます』の響きじゃないでしょ!」と叱られる。
学校から戻り「ただいま!」と言えば、「そんな響きではお帰りとは言えないわ」。
食事を目の前にして「いただきます!」を失敗すれば、いつまでも食べさせてもらえない。
「ありがとうございます」を間違えようものならもう大変なことになる。
小学校に上がったばかりの子供に容赦のない日々が続いた。
実は、恥ずかしいことに今でも母には時々、
「そんな響きで誰が協力してくれるというの?」と言われる。
父は口癖のように言っていた。
「すべての言葉には音がある。それを自分の音色(ねいろ)で伝えてこそ人に伝わるんだ」
確かに日本語は五十音でできていて、音の連続でもある。
父に算数や国語を教わったことは一度もない。
響かせることを教わる中で礼儀、思いやり、感謝を徹底的に叩き込まれてきた。
しかし、スポーツの世界へ向かっている弟にその響育は
全く実施されず、彼は別の苦行に明け暮れていた。
苦行、長男の僕には夕食後にそれはやってくる。
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父の響育(きょういく)その2
夕食。
それは家族にとってかけがえのない和を育むひと時だと思う。
今、何に夢中なのか。未来はどうなっていくのか。
健康状態はどうかなど、その空間で知れるものは数知れない。
しかし、楠瀬家には一切そのような和はなかった。[expander_maker id=”2″ more=”続きを読む” less=”閉じる”]
夕食後、僕は必ず父の部屋に呼ばれる。
おもむろにピアノのふたを開け、父は3つの和音をジャン、ジャン、ジャンと叩くようになり散らす。
そこで父は言う、「誠志郎。今日の夕食の味は3つのうちどれだ!」これが毎日の日課だった。
食事中、僕は味を楽しむとか、家族の話についていく意識などは、みじんもない。
ただ、この味はどんな音だ?どんな響きだ?それを知るために食べていた。
小学校にあがったばかりの誠志郎には、「神さまお願いします」の偶然を狙うしか手立てがない。
案の定外れる。
ピアノの上に置いてある大きな画板ほどの譜面台が、容赦なく僕の顔面を襲う。
僕は後ろに置いてあるソファーに吹き飛ばされる。
現代では何と言われるかわからないほどの仕打ち。
でも、時に見事に偶然も起きる。当たった時は天にも昇るような気持ちを込めて、
父は僕を抱きしめてくれた。
そして、ピアノの横にある小さなサイドボードからキスチョコレートをひとつ僕にくれる
それはそれは嬉しかった。美味しかった。
人間は、何歳だろうが嫌でも学ぶ。当てるには絶対何かヒントがある。
僕はそれを探し始めた。
ある時、ふとあるものに気がついた。
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ピーターと狼
僕は2月に生まれた。寒さが大嫌いな僕が2月生まれなんて自分でも不思議なところがある。
父が誕生日のプレゼントに僕をオーケストラに連れて行ってくれた。[expander_maker id=”2″ more=”続きを読む” less=”閉じる”]
幼稚園の時だった。
セルゲイ・セルゲーエヴィチ・プロコフィエフ作曲の「ピーターと狼」。
指揮と語りが小沢征爾さん。
オーケストラを実際に生で聴くのも、小沢さんの指揮を見るのも生まれて初めての体験だった。
それも最前列で。
今でもその時のオーケストラの振動を忘れることはない。
小沢さんが指揮をしながら物語を指揮台から語る。
それがなんとも怖い。
それに合わせてオーケストラがキャストや情景、心理描写を奏でてくる。
ピーター(弦楽合奏) 小鳥(フルート) アヒル(オーボエ)
猫(クラリネット) お爺さん(ファゴット)
狼(フレンチホルン) 猟師の撃つ鉄砲(ティンパニやバスドラム)
夜(ハープ) 朝(トライアングル)
楽器は言語を使うことができない。
でも、見事にはっきりと何を言っているのかがわかる。
音はしゃべる。これはその時得た大きな実感だった。
例え言語がそこになくても伝えたいことは音が伝えてくれる。
父はきっとそれを僕に体感させたかったのだろう。
言語があって、声があるんじゃない声があるから言語があるんだ。
素敵な誕生日プレゼントだった。
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別れの歌なんてない!
3月と言えば卒業、転職、転勤など環境の変化が訪れる月でもある。
また、別れの季節でもある。
日本にもそんな別れを象徴する楽曲がそれはそれはたくさん存在する。[expander_maker id=”2″ more=”続きを読む” less=”閉じる”]
そんな中、父は別れの曲が大嫌いだった。それは若干僕も受け継いでいる気がする。
父曰く、人間に別れなんて存在しない!
というのがいつもの持論だった。
人間はどこか記憶に住む生物である。
父は記憶に残っているものは全て別れとしないところがあった。
ある意味素敵なことだけれども情緒がないとも言える。
そんな理由からか、父が歌う別れの歌はとてつもなく明るい。
日本語を知らない人が聴いたら、なんて陽気な歌なんでしょうと勘違いするだろう。
しかし、人間の心情とは面白いものだ。
別れの歌を明るく歌われる程、切なく聴こえてくる。
言葉は別れ、声は出発の時。
それは間違っていないことなんだろうなぁと思う。
記憶に残っていれば、別れはない。
だから音楽は語り継がれるんだろう。
この春、新しい環境に移りゆく人もいるだろう。
でもそれは今と別れることじゃない。
さらに今と深く強い繋がりとなることを信じていてほしい。
歌はそれをいつまでも思い出させてくれる。
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