僕 と 父 と 声

笑い声がそいつを決める。

「どうしたら声が良くなりますか?」とよくお弟子さんが父に質問をしていた。
父の答えはお決まりの「笑えばいい」だった。
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みなさん「?????」。

それはそうだろう。父が教えていた1970年代は、日本にもっとも多くの発声法が入ってきた時代である。
お弟子さんが知りたかったのは、今一番最新の発声法だろう。
それなのに父の答えは「笑え」だけだった。

しかし、秘密はそこにある。笑うことによって声帯の芯が緩む。

芯が緩むとリズム、スピードが一気に上がる。
唾液が出やすくなる、呼吸器が広がる、鼻腔が湿る、表情が良くなるなど効果をあげればきりがない。

笑い声は真似ができない。ものまねの方でも、笑い声をそっくりに真似られる人はいない。
笑い声はそのぐらい複雑に作られているのだ。
その人かどうかを見分けるには笑わせればいい。そこに絶対的なその人の音があるから。

父曰く、「笑い声のイイ奴は声がいい」。
確かに僕の周りでも笑い声に魅力のある奴はいい声をしている。

オレオレ詐欺を激減させるには、電話の向こうにいるヤツを笑わせれば、その人が自分の息子かどうかハッキリ分かる。

問題はどう笑わせるかだけれど、、、。
笑い声にはその人の声の「個」が熟している。笑おう!笑えば笑うほど音声力は高まる。

人間はよくできている。

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春の声とタッチ

日本は世界でも有数の春の歌の多い国と言われている。
確かにあげて言ったらきりがない。
なぜかはわからないけれども、ひとつだけ言えるのは日本人は「春が好き」だろう。
好きでなければこれだけの歌の数は生まれない。
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母がさり気なく父に聞いた。
「どうして、リサイタルで春の歌をあまりうたわないの?」
母はただ純粋に、そして、父は困った顔で一言、
「春の音って難しいんだ、、、」
それが答えだった。父も春の歌で大好きなものはたくさんあった。
しかし、春の声とタッチは相当難しい事を父は知っていたからだ。

僕もそれは今になってよくわかる。
春の音って、外側は少し冷たく中が温かく少しだけ苦い音。
わかっているけれども、聞こえているけれども、感じているけども、
それを出すのは、、、んんん、、、。

夏の声とタッチは出せる。
冬の声とタッチは出せる。
春の声とタッチ。
これが楽に出せたらまた自分の歌の世界も変わるだろうな。

わかっていても、聞こえていても、感じていても、なかなかできないものがある。
父も僕もそのひとつに「春の声とタッチ」がある

日本人なのにな。

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音は見える

「今日の夕食の味は3つのうちどれだ!」父は味と音はそっくりだという。
そっくりって、、、そういう時に使う言葉なのか?
だんだん何もかもがこんがらがってくる。[expander_maker id=”2″ more=”続きを読む” less=”閉じる”]

動物は学びながら生命を維持する。人間だろうとライオンだろうとイルカだろうと。
さすがに叩かれっぱなしは嫌だ!キスチョコレートが欲しい!子どもが学ぶには十分な条件だ。
今まで見てきた、感じてきたことにどこか違いがあるはずだ。
それには今あるものを捨てて新しい視線で聴き、感じるしかなかった。

今まで僕はピアノを叩く父の指を見ていた。
きっとピアノを叩くタッチに、答えがあると思い込んでいたからだ。
しかし、それは違った。そうじゃなきゃこんなに痛い思いをするはずがない。
じゃあ、一体何を見つめれば、何に耳を傾ければそれがわかるんだ!
ソファーに投げ飛ばされ、僕は天井を見つめ、途方に暮れている時だった。

父の叩いたピアノの音色が天井に向けて噴水のように吹き上がる。
何がどのようになっているのか、言葉はまったく追いついて来ないが、
その3つの響きが微妙にだが、間違いなく3つとも違う。

ひとつはとても早いスピードで天井にぶつかっている。
もうひとつはピアノからドライアイスのようにモクモクと湧き出ている。
更にもうひとつは部屋中に広々と鳴り渡っていた。

答えはともかくとして、違うことに触れることができた一瞬だった。

わさびのように目を抜けて真上に突き抜けるような辛さ。
シチューのようにトロリと流れるような芳醇な響き。
レモンのように水分の含まれた泡のような酸っぱさ。
どれも絶対的な性格を持っている。
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人の話をよく聴け

親から子どもによく使われる言葉の一つに「人の話を聴きなさい!」というフレーズがある。

僕もさんざん言われ続けてきた。
うちの庭には小さな枇杷(びわ)の木がある。
小さいくせにたくさんの鳥たちがやってくる。

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父と僕は、よく庭で話をした。その時、父は必ず「今のオナガは何て言ってた?」

隣の佐藤くんのお家のコッカー・スパニエル(犬種)の鳴き声を聴いては

「今、彼は何て言った?」

近くのお寺がいつも夕方になると鐘を撞く。「今の鐘は何て言った?」

その問いに僕が「ヘェ~???」と戸惑うとすかさず父に
「人の話をよく聴け!」と怒鳴られた。

「人の話?」

父は、鳥も犬も鐘も雨音も洗濯機もすべて音の出るものを人と呼ぶ。

そして、何て言ってたか?と質問する。

言語だけではない。

「音の持っている意味を聴け、想像しろ」と言われ続けた。

「人の話をよく聴け」、確かによく「聴け」と書いてある。

声が良くなっていく人間に共通して言えることがある。

「とにかく人の声をよく聴く」

聴けるから、出せる。出せるから、聴ける。

オナガという鳥は、青と銀の羽を持ち立派な尾も持つ。
しかし、鳴き声が見事に汚い。

ウグイスの衣装は地味すぎる。
でも、あの声(音)に人は心を許す。

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肌で聴く

わさびのように目を抜けて真上に突き抜けるような辛さ。
シチューのようにトロリと流れるような芳醇さ。
レモンのように水分の含まれた泡のような酸っぱさ。
どれも絶対的な性格を持っている。

父の奏でる3つの和音にもその絶対的な性格があった。

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そこだ。そこに何かある。
音は聴くだけのものではない、見えるし、感じるものだと言われ続けてきた。

それは間違っていなかった。耳で聞いていたら聞えるものしか聴こえない。
しかし、感じればいくつもの音が聴こえてくる。

その日を境に3つの和音はほぼ間違えることはなく、キスチョコレートが貯蓄される日々を得た。

父から教わるものはいつもこうだった。

わかってしまえば「何だ!こんなことなのか」と思う。

しかし、それがわかるまで何百回飛ばされ、何百個のチョコを食べたことか。

音は耳で聞くな、肌で聴け。
声は耳に聞かせるな、肌に聴かせろ。

今でも忘れない。
その日の夕食は「湯豆腐」だった。

小学生の子どもにその味の性格はまだわからなかった。

間違えた。

でも、父は僕を叩かなかった。

そして、3つの音もその日を持って2度とやることはなかった。

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