僕 と 父 と 声
納屋で昼寝をする少年
ずっと探している絵がある。
それほど大きくない田舎の納屋の中にフワフワの干草があり、
その上に大の字になって昼寝をしている一人の少年の絵画。[expander_maker id=”2″ more=”続きを読む” less=”閉じる”]
農作業の途中、思わずそのフワフワの干草の上でブーツを脱ぎ、
横になってそのまま寝てしまったのだろう。
裸足で、肩から指先まで綺麗に力が抜け、
目はそっと安心と安らぎの中にいるように静かに瞑っている。
父の稽古場に飾ってあった絵画だった。ミレーでもゴッホでもなかった。
なぜか僕は、よく絵のことなんかわかりもしないのにずっと眺めていた。
しかし、いつの日かその絵は稽古場からなくなっていた。
今でも横になるとその絵が鮮明に思い出される。
1960〜70年代のボイストレーニングは、カラダを締めて息を瞬間的に出し、
音階に変換するという考え方が一般的だった。
現在でも、オペラの世界ではその発声法が受け継がれている。
しかし、父は日本人にその発声法は向いていないと言い切った。
筋肉の質も量も違うヨーロッパの人たちと同じにはできない。
父は緩めて振動させるという真逆の発声法に挑んだ。
力の抜けないお弟子さんによく「あの絵を見てごらん」と声をかけていた。
昼寝をしている少年の絵。
力を抜けと言葉で言うのは簡単だ。でも、それができないから苦しむ。
でも、その絵は教えてくれる。緩むカラダの理想像を。
いつか必ずその絵を見つけたい。
声だけではなく、多くの人がそこから感じるものがあると思うから。
フワフワの干草の上で。
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声の呼び名
声の呼び名というと「地声」とか「しゃがれ声」
「ファルセット」「ミックスボイス」であるとかそんな呼び名しか現代では聞こえてこない。
どれも人を表すような名前ではない気がする。[expander_maker id=”2″ more=”続きを読む” less=”閉じる”]落語や浄瑠璃の世界では江戸時代から粋な声の呼び名たくさんがる。
父はその呼び名探しがとても好きだった。
秋のよもぎ。花粉症の方は耳を背けてしまうかもしれないけれども
「よもぎ声」は少しザラザラしていて話に少し苦味のある声を指します。
それは決してしゃがれ声ではなく、人の心にとても染み入ることとして例えられた。
「吐息桜」(トイキザクラ)、女性がほんのり酔って、柔らかい笑顔でふと吐く吐息。
好んだ男性にしか吐かない吐息を言った。
「蝉声」(セミゴエ)、しゃがしゃがとうるさく、なんとも暑苦しい品のない声を指した。
Breavo-paraにも「自分の声が嫌いで」とおっしゃる方が多い。
それは声の文化が日本にはしっかりとあるのに伝わっていないからだと思う。
声には色がある、香りがある。そして呼び名がある。
日本の色彩を表す言葉や味を表す言葉は今でも使われているけれど、
声の呼び名が途絶えてしまっている。
声帯が柔らかく、開閉がしっかりと整い、大きも小さくも自由に鳴る声も美しいと思う。
けれども綺麗だけが文化じゃない。
しゃがれていてもチャーミングな声は愛おしい。
声は自分を表す。だから磨く。
父はよく言っていた。「自分の声に文化を持て!」と。
本当の自分の声がチャーミングじゃない人はいない。
必ず、色がある。
必ず、香りがある。
必ず、文化がある。
声ってそういうものです。
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リサイタルとスイミング
父は毎年2回リサイタルを行っていた。
父の荷物持ち、楽屋の吸入器のお水の交換、舞台で伴奏者の方へお花をお渡しする。
これが僕のレギュラーな仕事だった。[expander_maker id=”2″ more=”続きを読む” less=”閉じる”]
そしてもうひとつ、リサイタルに向けてのトレーニングで父はよくプールで泳いだ。
そのプールサイドの椅子の確保が僕の仕事だった。
父はよく言っていた。
歌とスイミングはとても近いと。
肺活量への影響。効率のいいブレスタイミングなど確かに色々な点で近いところがある。
しかし、父がやっていたことは、泳ぎながらうたっているということだった。
声に出してうたっているわけではない、カラダ全体でその楽曲をイメージし、
その泳ぎから音楽的なヒントを得ていたのだろう。
父は本番のプログラムのスコアをプールに持っていく。
そして泳いではそのスコアーにメモを入れる。
そのメモも言語ではなく、子どもの僕には全く意味不明な模様のようなものだった。
プールに譜面を持っていく人なんて、いまだかつて僕は父しか知らない。
おまけに本番に近くなると伴奏のピアニストまで連れて
泳ぎにいくのだからピアニストもたまったものじゃない。
でも、その感性の共有こそがふたりの独特な音楽を創っていた。
僕も泳いでいる時はうたっている。
父が体験から教えてくれた歌の勉強法のひとつ。
そんな感性で陸上競技や体操を見ているとみんなうたっているように僕には感じる。
リズム、旋律という流れ、ブレスのタイミングなどきっとどこか同じなのだろう。
今でもプールに行くと思い出す。
泳いではメモを入れている父の姿を。
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金木犀(キンモクセイ)
強引だった夏が音を立てるように過ぎ去って行きました。
鳴いている鳥たちの声もなぜか爽やかに聞こえてきます。
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このわずかな季節を歩いていると金木犀の香りに出会います。
早春の沈丁花、初夏のクチナシ、秋のキンモクセイは、日本の三大香木と呼ばれ、
ふと、呼び止められたかのようにその香りに足が止まります。
自宅の向かいにある神社へ父とよく散歩に出かけました。
父に教えてもらった話があります。
金木犀は花が咲く寸前に「さぁ、咲くよ!花を咲かせるよ!」と
一気にあの香りを放出するそうです。
父は香りと同時にその在り方が好きだったようでした。
歌を歌ったり、お話しをしたり、
咲いている時ももちろん大事であり、素敵だけれども、
歌う寸前、話す寸前にもう「勝負あった」が本当なんだ。と父は言いたかったのだと思います。
坂東玉三郎さんや小澤征爾さんを観ていると
まだ演目が始まっていないのにもう「勝負あり」といつも感じます。
それは学んで出来るものではありません。
その人がどれだけその演目を愛し、尊さを持って舞台に上がっているかだと思います。
ブレイヴォーパラでもスタッフとよくこんな話をします。
レッスンでは当然のこと、来られた方が
入り口のドアを開けた瞬間に自分を思い出せるようにお迎えする。
どんなものでも寸前が素敵であれ。
音や香りは時間を止めます。
時間が止まると人は自分を見つめます。
金木犀はいつもそんな事を気付かさせてくれる香木です。
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あなたは誰ですか?
「勉強じゃない、習うんだ!」
父がよくお弟子さんに言っていた言葉のひとつを
やっと最近わかってきた気がする。
[expander_maker id=”2″ more=”続きを読む” less=”閉じる”]「歌は習うものだ。勉強して上手くなるなんてそんなものじゃない」
ソファーに腰掛けて笑いながら話していた姿が今でも思い浮かぶ。
勉強とは答えがあるもの。習い事は答えのないもの。
そもそも音楽なんて答えのない産物である。
ひとつの旋律を聴いて「美しい!」と感じる人もいれば、
「怖い!」と感じる人もいる。
それはどちらも間違っていない。
勉強は大切だと思う。人間の進化はそこにあるだろう。
一方で、習い事は自分に触れる学びだと思う。
チャップリンが自分の作品を創るためにキャストのオーディションをする。
その時に紙に書かれたひとつの質問。
「あなたは誰ですか?」
誰々先生に師事して勉強してきた、過去にこれだけの作品に出演してきた、
過去にこれだけの賞を受賞してきたなど、チャップリンには一切関係のないことだった。
声を習うとそこがわかってくる。
この星でたったひとつしかない自分の声。
「あなたは誰ですか?」
習うを知ればその問いに簡単に答えられる。
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