僕 と 父 と 声

朝の掃除とハミング

父は掃除が好きな人だった。朝の稽古場の掃除は日課になっていた。
掃除をしながらお決まりハミングソングがあった。[expander_maker id=”2″ more=”続きを読む” less=”閉じる”]「歌は習うものだ。勉強して上手くなるなんてそんなものじゃない」

1949年初演のブロードウェイミュージカルで、
原作はジェームズ・ミッチェナーの小説「南太平洋物語」。

作曲はリチャード・ロジャース、
脚本・作詞はオスカー・ハマースタイン2世。

1950年にはトニー賞を受賞した作品。
その挿入歌「Happy Talk」。

僕はミュージカルよりも映画版の方が好きで父もそうだったと思う。
なぜかこの曲を聴くといいことがやってくるような幸せな錯覚を起こす。

父はテノールだったので高い声を操る。
そのトレーニングにとても良いのがハミングだ。
ハミングは鼻腔を通って頭蓋骨に振動させる。

その振動を脳が分析をして音程、リリース(音の長さ)、
フレージング(旋律)を正確に受け止めてくれる。

高い声を出せるようにしたい。
高い声を綺麗にしたいと思っている人には、とてもいいトレーニングだ。

気分も良くなり、トレーニングとしても有効な手段。

父らしい訓練方法だった。

音が高い曲は歌えないなぁ~と諦めてしまっている人。
諦めなくても大丈夫。
まずはその曲をハミングしてみよう。必ず良い結果が出るから。

Happy Talk。稽古場も綺麗になる、
気持ちもハッピーになれる、音も取れるようになる。

さすが、リチャード・ロジャース!

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秋の歌(詩)

この季節になると思い出すアーティスト、 Leo Ferre(レオ・フェレ)。

父の大好きだった音楽家。その影響で僕の憧れのアーティストの一人でもある。
詩人でもある彼の言葉は飾ることを知らない。
「すべてのものは本来美しく出来ているんだ、そこに飾るものなんて何一つないんだ」

僕の好きな彼の言葉の一つである。

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レオはアナーキストでもあった。
父はそんな反体制的な彼の生き方、言語をとても美的に解釈し、
お弟子さんたちに伝えていたのを覚えている。

どん底に突き落とされた時に見えた。
愛情や美しさを歌う時のレオには優雅ささえあると言っていたのを覚えている。

父は「歌に飾りを入れるな!」とよく怒鳴っていた。

自分の音色でただそのまま歌いなさいと。
自然にしろ味にしろ、本来のものを美しく感じられるこの季節。

飾らず生きろ。

秋の歌
ポール・ヴェルレーヌ
訳 金子光晴

秋のヴィオロンが いつまでもすすりあげてる
身のおきどころのない
さびしい僕には、ひしひしこたえるよ。

鐘が鳴っている
息も止まる程はっとして、
顔蒼ざめて、 僕は、おもいだす
むかしの日のこと。 すると止途(とめど)もない涙だ。

つらい風が僕をさらって、落葉を追っかけるように、
あっちへ、こっちへ、翻弄するがままなのだ。

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カレンダーと声変わり

12月になると新しいカレンダーをよく見かける。
僕が中学1年に上がる時だった。
父の友人で現代画の深沢さんという作家がいた。
うたいながら絵を描くという、とても面白い人だった。
そのうたを上達させたいという思いで父のところにいつも来ていた。

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12月になると深沢さんが自分で作ったカレンダーが父の稽古場に飾られる。
僕はなぜか深沢さんの絵が好きだった。
何故なら赤がいっぱい使われていたからだ。子ども心に楽しい絵と思えたからだ。

ある日、何気なく僕はそのカレンダーをめくっていた時、ふと目が止まった。
3月の第2週に父の赤いサインペンで「誠志郎、変声期期間」と書いてあったのだ。
全くそんな予兆も感じていないのに。
自分の声にいったい何が起きようとしているのか想像すらできず、正直怖かったのを覚えている。

春の訪れと共にその3月はやってきた。そして、その第2週僕の声は変わった。
のどは変声期まで性別を持たない。その時はじめて性別が生まれる。
その1ヶ月前から僕は暖かいレモネードしか飲ませてもらえない毎日を送っていた。
ハチミツとビタミンC。訳も知らされずただ飲まされていた。
しかし、そのおかげで強い痛みもなく、
2オクターブも下がる事なく自然に変声期を乗り越えていた。
父の的確な時期設定と母のくどい程のレモネード攻撃が
僕の人生の基盤となる「声」を守ってくれた。

カレンダーと声変わり。
12月になると思い出す。

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形あるもの全ては音を持つ

外に雪が降り積もっている時って、朝目覚めた瞬間に何となくわかる。
いつもの静けさとも違う空気の静寂さを感じる。
鳴く鳥もなく、耳を何かに覆われたような静寂さ。

[expander_maker id=”2″ more=”続きを読む” less=”閉じる”]カーテンを開けるとほんのわずかな青と
白の柔らかい曲線の世界が一面を覆っている。
一晩でよくぞここまでと変な感心をしてしまう。

雪の日を楽しく、暖かくする音楽は幾つも存在する。
しかし、あのわずかな青と白の静寂を見事に表している作品を
聴いたことがないのはなぜなのだろう?
雪は余分な音を消してしまうからなのか、旋律の動きさえ止めてしまうからなのか。

でも、空から落ちくる雪にそっと耳を澄ますとそこには音が存在している。
サクサクという音が空一面から降ってくる。
一度聴こえ出すとその音から離れられなくなる。

形あるもの全ては音を持っていると父はよく言っていった。
なぜかその言葉を忘れたことがない。
雲も、石も、月もみんな音を持って発信している。

人間の聴覚なんて生物の世界では下から数えた方が早いほど感度が悪い。
味覚、臭覚を学べるものはたくさんあるのになぜ聴覚を研ぎ澄ませる学びはないのだろう。

形あるもの全ては音を持っている。
そこを聴き取れた時、きっと人はまた進化を遂げると僕は思う。

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1月

暖かく晴天なる新年を迎えました。
今年もいろいろなことが起きることでしょう。

どんなことが起きようと、終わったことをクヨクヨせず、
未来に向けて心配することもせず、今しかない今を泳いで行こうと思う。
今年もどうぞ宜しくお願い致します。

[expander_maker id=”2″ more=”続きを読む” less=”閉じる”]1月はお正月であると同時に、1月3日が父の誕生日ということもあり、
楠瀬家では初詣を終えたお弟子さんたちが、なだれ込んで、てんやわんやの大騒ぎになる。

いちばん大変なのは母で、徹夜でお弟子さんたちの食事とお世話に明け暮れる。

新年会では恒例の行事がいくつかあった。その1つは、僕が父に歌を作るというもの。
作曲なんていう上等なものじゃない。
ただ父を見て感じたことを即興でうたうだけのこと。
しかし、それが父にとっては大のお気に入りだったようだ。
父は笑い転げるし、お弟子さんたちは酒の勢いであおるし、それはそれは盛り上がった。

以前、TEDで興味深いプレゼンテーションを見た。
人は5歳までの体験と読んだ本が 、大人になってからの人間形成に大きな意味を持つ。
人生に選択肢が生まれた時、その頃の体験と読んだ本がそのジャッジメントに大きく加担する、
というものだった。

僕なんてそのままじゃねえか!
選択肢さえなかったじゃねえか!

もう少しカッコイイ進路のとり方がよかったなぁと思う。
でも、今さらしょうがない。
今年もこの男を一気に生きるしかない。

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