僕 と 父 と 声

初響
年の初めは普段なかなか聴こえてこない音を感じられませんか?
街のノイズも減り、空気も晴れるので音が通りやすくなることもあるのだと思います。
[expander_maker id=”2″ more=”続きを読む” less=”閉じる”]僕がいつも感じるのは「お日さまの音」です。
もちろん、気分の上の話なのかもしれません。
マーという音とリーという音とヒーという音を3つ持っているように感じます。
幼い頃、よく父は僕ら兄弟に
「眼に映るものはすべて音を持っているんだよ」
と教えてくれました。
物理を専攻していたわけでもない父ですが、僕らも幼かったので何一つ疑うこともなく
何かを見つけて見つめては耳を澄まして、そのものの音に気持ちを寄せていました。
声のメソッドを学ぶと聴覚が良質に進化するという特徴があります。
発信と受け止めが揃って本当の繋がりが生まれてきます。
人は必ず良い声を身体の中に持っています。
それを聴き取ってあげられる思い、そんな小さな愛情をみんなが持てば、
とてもつもない大きな世界が出来上がると信じて今年も走っていきます。
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Happy birthday to you, ♪
Happy birthday to you, ♪
Happy birthday to you, ♪
Happy birthday dear, ○○○, ♪
人が人生の中で最もうたい、うたわれる1曲ではないだろうか。
父のことを思い出す時、僕には忘れられない光景が今でも残っている。
[expander_maker id=”2″ more=”続きを読む” less=”閉じる”]普通は部屋の明かりを消し、歌が終わると同時に主人公が
自分の歳と同じ数のロウソクの火をフゥーっと消して、
拍手が鳴り、「おめでとう!」というセレモニーになると思う。
楠瀬家での父の誕生日セレモニーは違った。ケーキにはロウソクは1本しか立っていない。
Happy birthday to you, ♪ Happy birthday to you, ♪ Happy birthday dear, PaPa, ♪
Happy birthday to you.
その時だ! 父はフゥーではなく、スゥーっとその1本のロウソクを消す。
息を吐いて消すのではなく、息を吸って火を消すのである。
ロウソクの火が生き物のように、父の口へ吸い込まれるように流れ、パッと消えていくのである。
それを見ている僕たちはおめでとうどころじゃない、みんな無言で今何が起きたの?と唖然となる。
息を吸ってロウソクの火を消す。父が呼吸のトレーニングとして編み出したひとつの技であった。
毎年のことなのでそれを見るのは慣れてるとはいえ、
目の前で起こったことにしばし言葉が出なくなる。
それを見たいために参加するお弟子さんもいた。
ロウソクを吸い消す一瞬前に父は吐ききる。
そして、一気にロウソクの火を飲み込むように吸いきっていた。
しばらく時間がたってから「おめでとう、PaPa!」と僕が口火を切るのが習慣だった。
お祝いをしているのに唖然とした気持ちもあるそんな父の誕生日セレモニーだった。
晩年はさすがに消えなかったが、今でも父の他にそれを見たことがない。
僕も何回もトライをしたけども火が消えてくれたことはまだない。
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歌い手は甘く暖かい飲み物がお好き
父は気分が良いとよくお弟子さんにココアを入れた。
当然のことながら僕はいつも手伝わされた。
お弟子さんが20人程集まるとその量も半端じゃない。
[expander_maker id=”2″ more=”続きを読む” less=”閉じる”]自宅にはやたら大きな業務用のココアパウダーの缶があった。
父はコーヒー党であったが本番前にはなぜかココアを飲んでいた。
喉がなめらかになるという。
それを証明する裏付けを探してみたけども見当たらない。
しかし、確かになめらかになるのはなぜだろう?
歌い手が甘い物好きという話はたくさんある。
ポール・マッカートニーは本番前にベルギーのチョコレートを必ず食べる。
エルビス・プレスリーは、チョコレートドリンクとドーナツが大好きで、
現場はいつもその香りに包まれていたという。
モーツァルトの歌劇の中にも甘い黒い艶のある魅惑のシロップ、というフレーズが出てくる。
おそらくチョコレートシロップのことだろう。何か秘密があるに違いない。
父の入れるココアは、甘いが相当苦い。
僕の記憶に残っているレシピはこれだ。
1.牛乳に、ありえない!という程の量のココアパウダーを入れる。
2.沸騰したと同時にかき混ぜる。かなりの体力が必要。
3.別の鍋に、ありえない!という程の量のチョコレートを砕いて溶かす。砂糖は一切使わない。
4.牛乳で伸ばしたココアを少しづつチョコレートの鍋へ入れて混ぜていく。
5.完全に混ざったところで、ありえない!という程の量の塩を入れる。
6.最後に父が「猛毒」と呼んでいたありえない!という程の量のブランデーを入れてできあがり。
歌い手は甘く暖かい飲み物がお好き。
この季節、歌い手には嬉しい季節かもしれない。
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人は声を耳で聴いていない!?
メキシコの絵本に、新年を迎えた時に山から降りてくる風が
ふたつあるというお話があります。
ひとつは「ウー」と鳴く風。もうひとつは「マー」と鳴く風。
そのどちらが聴こえたかを占うものらしいのです。
「ウー」は長生きの音。「マー」は深い愛情の音。
[expander_maker id=”2″ more=”続きを読む” less=”閉じる”]父によく言われました。「ウーかマーか?」と。
僕にはどちらにも聴こえませんでした。
どうしたら風の音を聴き分けることができるんだろう?
その絵本に答えがありました。
新年の風の中には「ウー」も「マー」も両方の音が入っていて、
聴く人の心の深層がその音を選ぶらしいのです。
音には無数の波が入り混じり、ひとつの音として認識をします。
心の深層がその中から音を選んでいる。
僕たちは音そのももではなく、心の深層の音を聴いているのです。
「音は耳で聴くものじゃない、カラダで聴くものだよ」と父によく言われました。
父の言うカラダとはきっと「心」のことを指していたのだと思います。
人の声は耳だけではわかりません。
肌で感じ、聴いてみてはじめてその人の伝えたい事がわかります。
そして、自分の心の深層とが混ざり合い繋がっていくのでしょう。
声は聴くだけでは繋がらない、
感じてみて、はじめて「そうか!」が言えるものです。
人は声を耳だけで聴いているのではないのです。
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音の出る写真
この季節、街で写真を撮っている人をよく見かける。
撮って残しておきたいと思う季節なのでしょう。
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父は写真を撮るのが大好きだった。そのカメラがどうのこうのと僕には全く訳のわからない話であったけれど
どうやらとても欲しかったカメラを友人に買ってきてもらった
ということだけは覚えている。
父の写真は、ほぼメチャクチャだった。
ボケているし、ハレーションは起こしているし、激しい色飛びはしているし。
でも、今思えばとてもチャーミングな写真だった。
もうひとつ言えばとても音楽的な写真だった。
きちんと座って「それじゃ、撮りますよ」
というものは1枚もなく、笑っているお弟子さんが足で床を鳴らしている姿だったり、
入れ立てのコーヒーの香りを楽しんでいる
おじいちゃまの変顔だったり、その1枚1枚に音楽があった。
その音楽に見ている僕たちは笑わされていた。
僕は静止画が大好きだ。動画も好きだけれども、
静止画の方が止まっている分エキサイティングに動いている。
そして、そこには必ず音楽がある。
そんな僕も写真が大好きでいつも撮っている。
僕の写真はほぼ「瞬き」。写真と呼べる素敵なものではない。
いいなと目に入ったものをただシャッターを切っているだけ。
でも、やはり音楽が聴こえてくる。
いいなと思う時って、表情と同時に音楽が鳴るものなんだ。
声も、写真もお決まりのものは苦しく重く古い。
声も、写真も瞬きのような軽さが爽やかで自然だ。
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