僕 と 父 と 声

春を聴く

やっと春が来たと堂々と言えるこの頃になった。
季節の中でいちばん多くの人が訪れを待つ季節ではないだろうか。

人はどんな瞬間に「あっ春だ!」と感じるのだろうか。[expander_maker id=”2″ more=”続きを読む” less=”閉じる”]春一番の風 桜の開花宣言 たんぽぽ 土筆 卒業式

春にはいろいろな訪れを感じるきっかけがある。
父も僕もそのきっかけとなるものがあった。
それは、「鳥の声」。
やはり音からくるものがリアルに感じやすいのかもしれない。
メジロ・ツバメ・ホオジロ・ホトトギスなど春の鳥たちをあげたらきりがない。

僕も父も大好きな鳴き声はシジュウカラだった。
日本ではどこでも見られる鳥だ。人懐っこく、いたずら好きで、
最近、シジュウカラは文節をつなげて会話を楽しんでいる
という研究発表が話題を呼んだ。
シジュウカラが危険を察した時の鳴き声がいちばん可愛い。
危険を仲間に伝えるのに、こんなにかわいい鳴き声でいいのかなぁ?
といつも思う。
また、仲間同士で会話を楽しむ時の鳴き声は、
警戒心を感じるような少し怖い鳴き声だ。
もっとキレイに楽しく話せばいいのになぁといつも思う。
それは人間の感性であって、彼らには彼らの感性と価値観があるのだろう、、、。

桜も美しい。
そしてもうひとつ、春の音を浴びてみる、
そんな休日の過ごし方もいいのではないかな。

春を聴く。
そんな時、シジュウカラはお薦めである。

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真似ろ vol.1

父との生活で思い出すことがある。
父の友人である千葉大学の教授の依頼で、合唱部の野尻湖二泊三日セミナーに
連れて行ってもらった時のこと。約50名だったと思う。[expander_maker id=”2″ more=”続きを読む” less=”閉じる”]
初日、部員たちはいきなり、歩いて1時間ほどの森の中に連れて行かれた。
「この森の3月の音は格別にいいんだ」と父は誇らしげに言っていたのをよく覚えている。

部員たちの顔はただ???だった。
それはそうだろう、着いていきなり着替えさせられ「森に行くぞ!」だ。
ワンダーフォーゲル部ならともかく彼らは合唱部だ。
森の奥まで登り、大きな岩があったのを覚えている。
そこで父は部員たちに言った。「真似ろ!」

部員たちの顔はただ???だった。真似ろって???
「今鳴っているこの美しい音色を一人ひとつ徹底的に真似ろ」と
父は伝えた。鳥の声も何十種類もある。渓流の音も奥の音もあれば近くの音もある。
風の音も穏やかなものもあれば壮大なものもある。
はるかに部員の数よりも音色は存在していた。父はその間ずっと昼食の用意をしていた。

夕方、陽も沈みかけた時、父は「帰るぞ!」その日のレッスンはそれで終わった。

2日目の朝、再び父は部員たちを森に連れて行った
朝は特に一つひとつの音が大きいように感じる。
父は一人ひとりとコミュニケーションを取っていた。
不思議なことに部員たちは急に目が覚めたように笑っている。
僕はずっと大きな岩の上からその姿を見ていた。
森で昼食を取り終えた頃、父は言った。 「もうできたね。帰るぞ。」

その日の午後、ようやく宿舎のリハーサルスタジオの扉が開いた。

次回に続く。

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真似ろ vol.2

合唱とは和音構成の楽曲を大人数で歌うというものではない。
人間の肉声で創るオーケストレーションである。
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オーケストラの根本的考え方は、楽器を使って自然界を表すという思想をもっている。

特にロマン派音楽の時代はそれが強かった。
印象派の時代には絵画のように音と楽器が風景や季節を表す作品が数々生まれた。

人間は左と右に分けて自然界の音を聞いてるが、
実際には左右ではなく、上下、奥と手前というように立体的に感じ取っている。
自然界の音風景を感じ取ることができないとアンサンブルはできない。
父はその実体験として森の中に団員を連れて行き、
ひとつの音がどこからどのようにして他の音と
どんな関係を持って存在しているのかを感じ取らせていた。
自分の音によって相手を活かすことができなければアンサンブルはできない。

面白い。 森から戻った合唱部のアンサンブルは何とも気持ちよい。
左右、上下、奥と手前。
話し合ってできているものではなく、全体の音風景が彼らの中にできあがっている。
自然に解釈が整っているのであろう。

自分のパートだけをいくら解釈してみてもそこに世界は生まれない。
各パートが他のパートを引き立ててこそ、そこにアンサンブルが生まれる。

オフの時間を自然の中で過ごす指揮者や演奏家が多いのもとてもよくわかる。
彼らはみんな理想のオーケストレーション感性を育てているのだろう。

曲なんてわからなくてもいい。
優れたオーケストラが来日したら聴きに行ってみてほしい。
とにかく楽しい。
僕がハーモニーに興味を持ったのもこの体験が大きかったと思う。

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タクトを振る声

オーケストラにはコンダクター(指揮者)が存在する。
楽器や声の表現、ディナーミク、フレージング、
アーティキュレーションなど細かい表情を指示します。

[expander_maker id=”2″ more=”続きを読む” less=”閉じる”]自分なりの音楽解釈を持って、それを演奏家一人ひとりに音楽を通して伝えていきます。

しかし、僕らのようなポピュラーミュージックの場合は、
コンダクターというポジションは存在しません。
歌と声の表情と表現でそれをメンバーに感じさせて世界を創っていくしかないのです。
譜面には書けないことだらけの波のようなものを掴まないと、
何も生まれてこない、それが音楽には確実に存在します。

父もそうでした。僕もそうです。
とにかく歌が揺れていく、音楽が揺らすからです。
揺れながら昇ったり、降りたり。
揺れながら濡れたり、乾いたり。
揺れながら話したり、黙ったり。
心を持った模様をとにかく表現するのです。
それをメンバーが見て聴いて、その揺れた模様に見事な色を塗っていきます。
色の塗り方は無限にあるように見えます。
しかし、「これだ!」という色は一点です。
その一点を掴んで初めて音楽が始まります。

よく父が「シロで揺れる」じゃなくて、「白で揺れる」と言っていました。
人は揺れながら生きていきます。
完全に整ったリズムは苦しくつまらないからです。

声が出るようになると揺れが生まれます。
だから、人と繋がれるのです。

自分というタクトで揺れを操る、
人間はそれが出来るから素敵です。

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声と森と風

6月を迎えた。短い時間ではあるけれど、風に清らかさと柔らかさが混じり、
とても気持ちが楽になる。

風と発声の関係は古いとされている。父はよく発声史をとても楽しく話してくれた。

[expander_maker id=”2″ more=”続きを読む” less=”閉じる”]古代の人間たちが、何キロもの先に住む同族にメッセージを送る時、ひとつは「火を焚く」。
これは、長い進化過程の末に主要な伝達手段となったものだ。
それ以前は「音でメッセージを送る」時代が長かったとされている。
古代のエジプトの壁画にもその跡が残っている。

おそらく、古代人の中に独特の発声法を持った種族もしくは
一族が存在していて、音声伝達を仕事としていたのだろうと。
追い風を待ちその風に音声を乗せ、何キロも先の仲間たちに信号のような音を伝えて、
お互いにコミュニケーションをとっていたのではないか。

現在でもケルティックの人々に森の中で木の反射音と風を使って音声伝達をしてる人々が
存在している。
あのケルトの美しい声はその手法から生まれていると言われている。
彼らの声は決して大きくない。しかしとても透き通っている。
反射に必要な声は大きさではなく、小さく真っ直ぐに伸びる声だ。
鳥たちはすでにそれを知っていて反射音で生きている。

風を読む、どの方向へ吹いているのか。
そしてどの木に反射させたら目的の場所に伝えることができるのかを知っている。

伝達は声の大きさではない、
力を抜いて伸びのある真っ直ぐで透き通った声(音)でそれを成し遂げられる。

歌も、スピーチも僕は同じことだと思う。大きさではない。声は小さくても大丈夫。
伸びと透明度を身に付ければしっかりと伝えることができるし、
その声(音)の方が相手は受け入れやすい。

その発声法は進化を遂げて今でも学ぶことができる。日本人はそもそも音声が小さい人種。
だからこそ出せる声の美しさがある。

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